Emacsと添い遂げる
すこし前の話。 仕事でそこそこのボリュームのMarkdown文書を書くことになった。 諸般の事情から主に会社のWindows機で書いていて、しばらくはVisual Studio Codeで頑張っていたのだけど、ある日ついに限界に達した。
WindowsでEmacsといえば遠い昔にMeadowを使ったことがあって、正直あまり良い印象はなかったのだけど、ものは試しと思ってGNU公式のWindows向けインストーラを使ってみたらいい感じに動いてしまった。
IMEとの相性はだいぶ厳しく感じたので、package.el
をはじめて(そう、はじめて)使ってddskkを入れてみたら、これまたいい感じに動いてしまった。
ついでに markdown-mode.el
もサクっとインストールして、一抹の満足感とともに文書を書き進めた。
おかしなもので、EmacsをMacやリモートのLinuxで使っていても小指がShiftキーを探すようになってしまった。 気が向いたときだけ使えばいいんだし、と思ってそいつらにもddskkをインストールしたら、待ってましたとばかりに手がC-x C-jを叩く。 SKKなんて最後に使ったのがいつだったかすら思い出せないのに、本当に不思議でしょうがない。
以前、目にした記事を思い出す。
グイドは「Emacsは新しいエンジニアには本当にオススメしない(つまり使うな)」と言っていて、 その理由として「It just exists for old brain compatibility.(古い頭脳との互換性のために存在している)」と述べている。
思い返せばEmacsと出会って20年以上が経っていた。 使う頻度は仕事柄もあってかVimのほうが高いのだけど、汎用テキストエディタとして使う気にはまったくなれない(みんな入力モードとIMEの操作にどう折り合いをつけてるわけ?)。 VS Codeや少し前だとAtomなんかを試した時期もあったのだけど、なんだかどうも他人行儀というか疎外感というか、こう、安心して背中を預けられない感覚みたいなものが拭えなかった。 これも古い頭脳の一つの表出なのだろう。
長い付き合いとはいえ正直こっちはElispもろくに書けないのだけど、それでも、少なくともまだ当分の間は、こんな素人の面倒も変わらず見てくれるだろうなという信頼がある。 そんな安心感を守りつづけてくれている開発者とユーザのコミュニティに感謝しかない。